大島紬の歴史と研究開発

大島紬の綿糸の綜続通し

鹿児島から南西へ約400km、沖縄との間に太平洋と東支那海を区切るように飛石状に連なる五つの島、これが奄美群島である。

輝く太陽の島、珊瑚礁に囲まれた真っ白い砂浜と青い海、詩情溢れる常夏の島として、観光面で知られているが、遠く歴史を遡ると、この奄美も暗く悲しい歴史の島である。大和朝廷の管轄から琉球王朝の統治ヘと代わり、さらに薩摩藩の直轄地としての圧政の時代と悲惨な時代が続き、ただでさえ苦しい生活の上に、毎年のように穀物の収穫期に襲来する台風や飢饉は、島民の苦しい生活をさらに倍加したのである。

奄美の産業文化に大きな貢献を

しかし他方において、「海の道の島」として知られるとおり、この奄美の島々は、大陸や南方との交易の通路として重要な役割を果たしており、そのため北と南の文化の折哀地点として、また溜まり場となって、奄美の産業文化に大きな影響を与えたことは確かであり、大島紬もこれらの古い歴史の文化遺産の一つといえよう。

奄美大島は亜熱帯の島であり、昔から芭蕉が豊富にあり、この長い繊維を使って芭蕉布が作られ、島民の日常作業衣として広く用いられていた。

現代でも大島紬の染色に

養蚕も古くから行われていたが、その技術は大陸から琉球(沖縄)を経て奄美に伝来したものか、あるいは日本本土から南下したものか、いろいろな説があり定かではない。いずれにしても亜熱帯の無霜地域で、一年中桑の葉が茂り養蚕の適地として、絹織物が盛んに作られたようである。

染料としては、山野の植物の実や花、葉、樹皮、または根から抽出した植物染料を主に用いていたことは、日本各地の古い染色と変わりないが、奄美に於いてこの古代染色が連綿と受け継がれて、現代でも大島紬の染色に利用されている。

織物も初めは無地や縞、格子など簡単な平織から、これに改良工夫をこらして浮織(ふかし織)などが製織されたようである。この浮織は綾錦などの外来織物の影響を受けたものであり、更にこれらの紋様が後に、大島紬の独特な斜行的な絣模様の元祖になつているようである。

初期の大島紬は、もちろん手引きの真綿紬糸を用い、いざり機(地機)で製織していたのであるが、その起源は明確ではない。享保5年(1720)に薩摩藩が奄美の島民に紬着用禁止令を出した史実があり、これ以前から奄美では紬が生産されていたことは言うまでもない。

この頃は未だ絣はなかったようであるが、1800年代になり大島紬にも絣が応用され、この絣をトリキリと呼んでおり、大島紬の絣織物の創始時代となっている。その頃は技術も幼稚で、正確な物差しもなく、2~ 3種類の絣を組み合わせて簡単な模様を作る程度であったが、その当時としては高級品であったので、この紬は奄美の黒砂糖と共に、薩摩藩の大切な将軍家への献上品、交易品として藩の重要財源になっていた。

明治時代の大島紬

明治になって、大島紬の生産、販売が自由に取引されるようになり、市場で大きな人気を得るようになった。需要の増大に伴い、生産も軌道に乗って、家内工業から工場生産へと変わり、それにつれ生産の分業化が進み、生産技術の大変革期となっている。

高級絣織物としての地位が確立

染色は、シャリンバイ(車輪梅)と泥土を用いた、現在利用されている泥染法が定着し、絣製織技術も進歩して、明治23年(1890)には調整針を使用して、経・緯の絣模様を正確に合わせるようになり、高級絣織物としての地位が確立された。

需要の増大とともに原料糸も地場産の手紬糸では間に合わず、明治28年(1895)頃には、名古屋地方から玉糸を買い入れて使用するようになり、また織機も明治30年(1897)頃に改善されて、従来使用していたいざり機を高機に切り換えて、能率化がはかられている。

ここで特に注目しなければならないのは、絣加工技術の研究開発である。それまでの手括りによる絣加工法ではどうしても能率が上がらず、明治34年(1901)頃から当時の先覚者によつて、絣加工用締機の研究がなされ明治35年(1902)頃、永江伊栄温氏によってやっとこれが完成している。

絣加工用締機が開発

この大発明によつて、絣加工が数倍も能率化され、技術的にも精巧、緻密な絣加工が可能となり、大島紬の品質と信用はさらに高まり、その声価をますます高めたのである。

この絣締機の発明は大島紬の技術進歩過程の中で、歴史的な大発明であり、その後部分的な改良はなされているが、現在でもなお活用され、大島紬の大きな特徴の一つとなっている。

さらに明治41年(1908)になって、緯絣の交代締法が研究開発されている。それまで緯絣は一本の糸には同一模様だけ絣加工していたので、緯絣の梓の数は緯絣の種類と同数が必要であった。従って模様が大きくなると抒の数も多くなるので、ある限度以上の柄模様の加工は困難であった。

この絣の加工法を改善し、一本の糸に図案の絣模様の順番通りに一段一段の模様を加工し、緯絣を1丁の抒で織れるようにした交代締法が開発されたため、製織能率が倍加されただけでなく、大きな柄模様の加工も可能となり、製品の高級化がなされたのである。

さらに高級化される

このように明治時代の後期は、絣の加工技術に種々の大きな研究開発がなされており、大島紬の技術革命の時期であったといえる。この時期は大島紬の安定成長期といえる。技術的な研究改善のほか、多くの新製品が研究開発されて製品の多種多様化がはかられ、紬の需要も順調に進展している。

大正2年(1913)に鹿児島県の大島島庁に紬業の改良普及員が配置され、同10年(1921)には染色、図案と分科して改良指導員の配置、また昭和2年(1927)には鹿児島県工業試験場の大島分場の設置となり、続いて昭和4年(1929)には、これが独立して大島染織指導所の誕生となって、公設試験研究機関の技術改善指導がなされ、鹿児島県の諸施策が重点的になされた時期である。

技術面では大正13年(1924)に袋締法による絣加工が研究開発され、従来の対称的な柄模様から一歩前進して一方向きの柄が生産され、さらに昭和7年(1932)には簡単袋締法も研究されて、大島紬の柄も大柄の伸びのある製品へと発展している。

一方撚糸、精練など原料糸の技術も本格的に研究され、昭和8年(1933)には新製品として強撚糸応用の夏大島紬と、飾り撚糸応用の大島紬も生産され、また大正4年(1915)頃から玉糸に代わって一部使用されていた本絹糸も、昭和10年(1935)には完全に本絹糸のみが使用されるようになっている。

染色

染色面においては、昭和4年(1929)に泥染大島紬の、絣模様の部分的な色挿しとして合成染料が一部使用され、単色の渋い色調ばかりの大島紬に、派手な色彩の柄模様の製品が生産されるようになり、また昭和8、9年(1933~ 34)には藍染、泥藍染の大島紬が研究開発されて、大島紬も従来の泥染一色の紬から、バラエティに富んだ製品の多様化時代に移行してきたのである。

戦争の影響

昭和10年(1935)代になると日本国内は臨戦態勢となり、高級絣織物として確固たる基盤を築いてきた大島紬も大きな影響を受け、その生産額も減少した。昭和15年(1940)7月に、国は奢修品製造禁止令を発し、厳しい規制をしたのであるが、大島紬は奄美群島の生命産業であり、住民の生活手段を失い、大きな影響を与えるだけでなく、工芸的伝統技術が滅亡する恐れがあるということで、国に対し技術保存の必要性を訴え、ようやく地方長官許可織物として一部の製造が許可されたのである。

しかし、日本の戦力低下と共に、昭和19年(1944)から20年(1945)にかけて、奄美群島は度重なる空襲でほとんどの村落が戦災に会い、工場や機材などもほとんど戦禍で焼かれ、昭和20年には大島紬の生産も皆無となった。

戦禍の痛手を受けただけでなく敗戦後は日本本土から分離されて米国の軍政下に置かれ、本土との交通は途絶し、大島紬の復興は、その見通しもできない最悪の状態となったのである。この先祖伝来の伝統工芸であり、生命産業を滅亡させてはならないという住民意識の強い盛り上がりで、わずかに残った資材を集めて紬生産を開始するとともに、米軍政府に対し大島紬の復興を請願したのである。

昭和25年(1950)になって、ガリオア資金(アメリカの占領地域救済政府資金)による原料糸がようやく入荷し、本格的に紬の生産と、本土との交易が開始されたが、消費地の流行や情報なども把握できない戦前そのままの生産では、その売行きも悪く先行きは暗湾たるものであった。

祖国日本への復帰という、20余万群島民の悲願が、血の叫びとなって大運動が日夜続けられ、ようやくこれが達成されて、奄美群島が本土復帰となったのは昭和28年(1953)12月25日である。

奄美群島は晴れて日本復帰はしたものの、8年間の米軍政下における塗炭の苦しみに喘いでいる間に、日本本土は着々と復興し、奄美の立ち遅れは大きく、大島紬もこの立ち遅れをどのようにして取り戻すか、大きな不安があった。

伝統的品質も再認識

しかし、復興計画による国、県の適切なテコ入れがなされ、官民一体となって、集散市場の流行調査、情報収集、さらに加工技術の研究改善などの諸施策が重点的に行われ、やがて消費者の嗜好に合つた製品化がなされるようになり、伝統的加工技術と品質の良さも再認識されるようになり、また日本経済の高度成長の波にも乗って、順調な発展を遂げたため、日本に復帰して10年後には早くも大島紬ブームの時代となり、日本の代表織物としてゆるぎない基盤ができた。

この日本復帰後の十数年は、大島紬の第二期技術革新の時代といえよう。

絣の抜ぎ切り締法が開発され、織口の始めの絣模様が一線上に並ぶように改善されたので、絣の織付けが容易になった。従来の点と線の構成による絣模様から、総蚊絣模様に改善し、精巧緻密な絣織物として高級化がはかられた。

色大島紬が開発

泥藍染の絣の抜染加工法が研究開発され、新しい多色入り泥藍染大島紬が生産されるようになり、需要増がはかられた。織機の筏打ちバッタンが改良され普及して、製織能率の向上がはかられた。

白地に藍絣の大島紬が開発され、品種の多様化がはかられた。色大島紬の新製品が研究開発され,品種の多様化がはかられ,需要が激増した。絣の摺込染色法が研究開発され、染色加工法の合理化、能率化がはかられ、品質の改善がなされた。

品質が改善

絣加工法に逆締め法が応用され、品質の高級化がなされた。大島紬の二次加工品として、ハンドバッグなどの生産がなされ、需要の多様化がはかられた。

地色の摺込み染色加工法による地色の多色染大島紬が製品化され、品種の多様化がはかられた。絣締め用綿糸の引き込本数を変えた絣出しの方法が開発され柄模様の濃淡による立体的な表現法がなされ、品質が改善された。

  1. 昭和38年 シャリンバイ、藍以外の草木染による大島紬が製品化され、品種の多様化がはかられた。
  2. 昭和39年 経絣締めにおける折曲げ耳の括り締め加工法が一般に普及し品質の向上がはかられた。
  3. 昭和40年 多色模様の図案描法にポスターカラーなどが使用されるようになり、図案の色彩配色が容易となった。
  4. 昭和43年 市町村の織工養成事業が開始され、製織工の確保に努めるようになった。撚糸加工における原糸の下漬け処理の省略法が実用化され、撚糸作業が合理化された。
  5. 昭和45年 色大島紬の絣加工に不抜性染料が利用され、絣の染色加工法が改善合理化された。

以上のような幾多の研究改善が矢継ぎ早になされて、戦後その再興も危ぶまれていた大島紬は、短期間の間に全国織物産地の王座を占めるまでに発展して、大島紬ブームの時代を引き起こし、世界で最も精巧、緻密な絣織物としての名声を博するまでになった。

昭和37年(1962)以来、全国の有名呉服織物産地が産地製品の覇を競う、大阪の全国特選きもの競技大会と、京都の全国優秀織物競技大会などに
おいては、毎年優勝または準優勝を獲得しており、いまや日本の代表的な絹の絣織物として揺るぎない地位を確保している。

大島紬の技術が鹿児島に

大島紬は奄美で生まれ、はぐくみ育てられて発展したものであるが、この技術が鹿児島に渡ったのは明治7年(1874)である。奄美の婦人が鹿児島に招かれ、その技法を伝授したのが始まりで、その後民間工場が設立され、鹿児島の大島紬として発展し、大正5年(1916)には同業組合も設置されて、産地としての形が整い、生産も順調に伸びた。

本場大島紬として生産を開始

第二次世界大戦によって、昭和20、21年(1945、46)は生産がストップしたものの、その後は戦時中鹿児島に疎開した奄美出身の業者が、本場大島紬として生産を開始し、さらに奄美が米軍政府の統治下に置かれて祖国から分離された間に、着々と地盤を築いて、その後は順調な進展を示し、現在は鹿児島市を中心にして県下全域に広がり、その生産も戦前の最盛期を凌いでいる。

戦前に全盛を誇った正藍染の紬は、衰微して見る影もないが、新しく化学染料を使用した色大島紬の生産が大半を占めている。その中の大半が緯絣であり、本場奄美の産地が泥染、泥藍染の紬の経・緯絣を中心に生産しているのと、対照的な企業経営をしている。

本場大島紬は、長い歴史の間に研究改善がなされて、その種類も多く、種々の分類法があり、名称が付けられている。

  1. 糸の密度別の分類
    大島紬の経糸の密度の単位を算という。
    1算は糸の80本をいい、現在最も多く生産されているのは13算の紬と15.5算の紬である。13算の紬は歳巾(40cm)間に経糸が13× 80=1,040本あるもので、15.5算の紬は歳巾(40cm)間に経糸が15.5× 80=1,240本あるものをいう。

    一般に糸の密度の高いもの程品質が良く、高級品は15.5算を用いる。特殊なものとして18算、20算の紬も生産されているが、13算未満のものは生産されていない。

  2. 絣糸の密度別の分類
    経絣糸の本数を表す単位をマルキといい、その十分の一を手という。 1マルキは経絣糸の80本で、1手は8本である。現在主として生産しているのは、9.6マルキ、7.2マルキ、5.8マルキ、6.0マルキなどであり、7.2マルキは経絣が、80本×7.2=576本あるものをいう。

    もう一つの表し方に一元越しとか一元片越しというのもある。一元とは糸2本のことをいい、一元越しとは地糸2本と絣糸2本が交互に配列されているもので、一元片越しとは、地糸3本と絣糸2本が交互に並んでいるものをいう。

  3. 染色別の分類
    大島紬は染色別に分類したものが最も解りやすい。これを大別すると次の通りである。

(1)泥染大島紬

最も伝統の古い染色法による大島紬である。シャリンバイの煎出液と、泥土を用いて染色してあり、別名をテーチ木染め、または茶絣の大島ともいう。泥染特有の渋い光沢の黒地に、淡い茶味の自絣で柄模様を表しているが、絣模様を着色したものもある。

(2)泥藍染大島紬

絣用の糸を植物藍で先染めした後に、絣締めを行い、地色をシャリンバイと泥上で染色した大島紬で、泥染特有の渋い黒地に、藍色の絣模様を表しているのが特徴である。近年、絣模様を部分的に白絣や色絣模様で表したものも多い。

(3)正藍染大島紬

地色を植物藍で濃紺色に染色してあり、絣模様の色は淡い藍色である。現在は主産地の鹿児島でも生産量は少ない。

(4)色大島紬

昭和31年(1956)に研究開発され、生産されたもので、従来の植物染料と異なり、化学染料で染色したものである。戦後は、明るく派手な色彩のものが要求されるようになったため、伝統的な絣加工技術の中に、流行にマッチした近代的感覚を取り入れた新製品である。

地色や絣模様の色目が自由に配色されるので、バラエティに富んだ色彩の大島紬として、消費者の需要も多い。

(5)草木染大島紬

近年、古典的な伝統工芸染色が再認識され、草木染が賞用されている。大島紬産地においても、シャリンバイ、藍以外の植物染料を使用した草木染大島紬が新しく生産されているが、その量はまだ少ない。

4 柄別の分類

柄の大きさによって、大柄、中柄、小中柄、小柄という分類をしている。また釜という言葉で表現する方法もある。布巾の横一線上に一完全模様が一つあるものを1釜、模様が二つ並んでいるのを2釜などという。

柄の大きさと釜数とは比較が出来ないが、大体次のように区分される。

  1. 大 柄: 1釜、1.5釜、2釜程度のもの。
  2. 中 柄: 2釜から4釜程度のもの。
  3. 小中柄 :6釜から24釜程度のもの。
  4. 小 柄 :32釜以上のもの。

大島紬は家内工業から発展した伝統工芸産業であり、その加工のほとんどが手作業によつてなされており、世界で最も精巧で緻密な絣加工技術の織物として、また日本の代表的な高級絣織物として名声を博している。

世界で最も精巧で緻密な絣加工技術の織物大島紬

原料糸は天然繊維の絹糸だけを使用しており、また染色法も天然の植物染料を使用して、日本の古代染色が現代も活用されている特異な産地といえる。

絣加工法は、締機という手織機を使用した織締め法で加工され、この1ミリの狂いもない絣締め加工が、大島紬の精巧さの要因となっている。また絣の製織技術も、根気と熟練を必要とする作業であり、まず緯絣糸の一本一本の絣模様を、経絣の模様に合わせながら織り込み、約10C皿程度織った後に、次は調整針を使って経絣糸の模様のずれを一本一本調整して、経・緯の絣模様を正確に合わせていく。

日本人に適した着物

一反の反物の中には何百万という点絣があるが、この絣全部を正確に合わせることは他産地では見られない作業であり、体力と根気が必要である。

このように技術的に多くの特徴を持つているばかりでなく、製品的にも多くの特徴がある。植物染料を用いて何十回も繰返して染色されているため、糸がこなされてぶっくらしており、その上、手織りの紬であるため、製品の風合いは一種独特の味がある。

すなわち軽くて温かく、しわが寄りにくい。また、しなやかで体に良く馴染むので、体の線を美しく見せるという特徴を持ち、体のバランスの良くない日本人に適した着物といえる。

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