庶民の麻が絹より贅沢で染織は、生活と密接な関係に

木綿が安いのに麻は高いのば、世界共通のことで、英国では、アイリッシュ・リネンのハンカチなど、一枚で、数万円もするのがあります。さすがに日本の麻は、高いといっても、それ程ではありませんけれど、古代では、庶民の使用だった麻が、今は絹より贅沢なものになっている。

歴史の変遷というのは、面白いものだと思います。越後の麻について、柳悦孝さんは、次のようにいわれます。

小千谷ちぢみ

麻は、琉球から鹿児島を経て、越後に伝えられました。これが今の小千谷ちぢみ、実際にはちぢみではないのですが、越後上布といわれているものです。これがどうして、はるばる九州からぽつんと越後の国に伝わったか、興味のあることです。が、私の考える所では、越後は有数の米所で、米を全国へ送り出す為、運搬船が遠くまで出かけていた。佐渡をひかえて、経済的にも恵まれていましたから、各地からよいものを買い入れることができ、その一つとして、麻も移入されたものでしょう。

麻は、琉球から鹿児島を経て、越後に伝えられました

前に、小千谷で見た縞帖に、「天明二年奥州行」と書いてあるのがあり、その柄が沖縄の絣とまったく同じものだったのにびっくりしたことがあります。また、昭和八年に、岩手県へ旅行したとき、農家で出された座布団が、どうもふつうの木綿と違っているので、よく見ると、縦糸が麻でした。

麻より、本綿の方が上等

夜寝るときに敷かれた布団も、さわってみると、上は木綿だが、下のは麻で、中には綿のかわりにオクズ(麻の暦)がはいっていたので、なるほど、と思ったことがあります。麻より、本綿の方が上等なのです。その頃の地方の生活は、実に質素なもので、お客にはそういう風に、木綿の布団を出しますが、自分達はワラのやわらかいのを布団がわりにして寝ているという風でした。

東北地方は、木綿の文化が広がるのが遅れたので、木綿は未だ稀少価値のある上等品で、客用に使われるくらいの贅沢品だったのでしょう。
麻には、苧麻(カラムシ。いらくさの類)と大麻(タイマ)があり、苧麻はいわゆる上布で、薄手で丈夫な細い糸がとれ、平安朝に多く使われました。

大麻

大麻は、下布、又は大布ともいわれています。下布に対して、上布は上等な布の意で、非常に着心地のよいものです。霧をふいてたたんでおくと、新しいもののようにきちんとするのも、始末にいい織物といえます。

真夏はどんな凍しい格好をしても、暑くてたまりません。そんな時、私は洋服をぬいで、麻のきものに手を通す。とたんに、凍しい風が身内を通りぬけたような気分になり、ちゃんと帯でもしめれば、生まれ変わったような心地がするものです。が、ずっと昔は、麻は夏だけでなく、冬でも着たもののようです。

桃山から徳川へかけての染めものには、麻でつくった綿入れのようなきものもあり、かえって昔の方がそういう点は自由だったのかもわかりません。私の子供の頃は、土用に入らなくては、麻はおかしいとされていました。

近頃は、真夏でなくても、暑い日には麻を着るようになりましたが、もう一歩すすんで、いっそ麻の袷を作ってみたら如何なものでしょう。きっと、初夏の日光のもとでは、気持ちがいいのではないでしょうか。

麻は織ってよく、染めてもいい色にあがります。吸収の度がつよいのか、同じ色でも、木綿や絹より、ひときわ落ちついた色に染まりますが、何といっても、麻は絣にとどめをさします。琉球、薩摩、小千谷など、いずれも有名な産地ですが、能登はそれより少し落ちる。本来の苧麻(カラムシ)ではなく、俗にラミーとよばれる(やはリカラムシの一種ではありますが)改良された品種の糸を使うからです。

どうしても沢山とれるものは質がおちる、改良種は原種に劣る、繭と同じように、自然界のこの法則は、致し方ないことかも知れません。

麻は織るのが厄介

よく染まる麻も、織るのは厄介です。それには一定の湿気を必要とします。かわくと、糸が切れるからです。だから産地は、湿気の多い所に限られており、どこでもできるというわけにいきません。麻の値段にきりはなぐ、小千谷など十何万というものまでありますが、とても手が出なくても、やはりその価値は充分みとめられます。

第一、いい麻は跛がよらない。第二に、質がうすくて、美しい。第三に、絣のこまかさですが、これは先にもいつたように蚊絣か亀甲の他、不必要な贅沢品といえましよう。

大島紬の精緻な絣は締機での絣括りにあります。
明治42年に締機が考案されるまでは、他の産地と同様に麻や綿糸による手括り絣の織物でしたが、以降精緻で多彩な柄が考案されました。

鹿児島県にある大島紬「窪田織物」さん
出典:浜松・神戸の着物店

麻糸は、ギシギシして、織りにくいので、薩摩上布などには、颯がひいてあります。これは、仕立てる前に、とって貰う方がよろしい。琉球は、自絣が多いのですが、薩摩は藍絣で、ひと口にいえば、麻の大島といった所です。忘れましたが、大島紬には夏大島というのもあり、すけた絹地で織っていますが、これもはじめは琉球から教わったものでしょう。

何といっても、琉球は染織の本場で、沖縄人はとてもおしゃれだそうですが、こんなに上等な布ができたのも、王様が奨励するとともに、年貢としておさめさせたからだと聞きます。

越後では、雪でさらすので、ことさら白い色が光るようにみごとです。それは私に、越後のお米を思い出させますが、そういう高級品のほかに、奈良や近江でも、この方は主として自生地が作られています。が、安いといっても、麻は相当高く、交織でもいいから、今に安くていい麻ができることを私は切に望んでいます。

私は、ほんとは人絹でも何でも構わない、美しくさえあれば。が、それが叶わないから、古い手法を好むのです。ただ昔のものだからいい、と思っているわけではありません。

染めものの歴史

染めものの歴史は古く、推古、天平の頃から、高級(ろうけつ)、級細(板じめ)、綴領(絞り)など、いくつかの方法が行なわれていました。
「みちのくのしのぶもじずり誰ゆえに乱れそめにし我ならなくに」の古歌で名高いもじずりは、しのぶの葉などを、石の上で叩いて衣に招りつけた、原始的な染めものでした。

それと関係があるかないか知りませんけれども、今でも秋田には、紅花とか紫草で染めた絞りがあって、これはなかなか美しいものです。招衣とは違いますけれども、わりあい早く開けた東北地方には、染織も古くから発達していたのでしょう。

「あかねさす、柴野ゆきしめのゆき」「つき草に衣は招らむ」など、万葉の歌にも、植物染料の名は沢山出ており、一般化されていたことを物語っていますが、正倉院を見ても、まるで今できたかと思われるような鮮やかな染めものがあって当時の卓抜した技術が偲ばれます。はじめは上流階級にかぎられていたでしょうが、日本人の生活と、染織は、非常に密接な関係にあったとみえ、染めものから生まれた日常用語も意外と多いようです。

たとえば一入という言葉、「ひとしお味がいい」などと申しますが、藍ガメにつけることをヒトシオ、フタシオというところからはじまりました。「藍より出でて藍より青し」や、出藍のほまれも、― これは中国の言葉ですが、直ぐとり入れられました。また逆に日常生活品が、文様にたくさん使われた点でも、世界に類例がないでしょう。

あらゆるものを文様にしている。鍬とか鋤とか、矢尻とか井桁とか。いかに私達の先祖が、染めものをたのしんでいたかわかります。鎌倉時代に至って、染めの技術は進歩しました。旗や鎧の皮などに、美しいものが残っています。室町・桃山時代までは、未だ型はなく、あったとして、一般的なものではなく、主に手描き、もしくは絞りの上に色ざしを行なったようです。

辻が花

振袖 辻が花 深緑
出典:有限会社みやたけ工房

辻が花というのはその頃のみごとな染めもので、そんな破れやすいものがたくさん保存されていることでも、日本は珍しい国といえましよう。が、染めものの革命は、十七世紀に至り、友禅によってはじめて完成されました。

友禅

西川健一作 本加賀友禅振袖【のし】

西川健一作 本加賀友禅振袖
出典:和服/呉服の専門店まつかわや

友禅とは、ひと口にいえば、のりが発明されたということです。それまで、絞りか、じかに手で描いていたのが、糊を使って伏せ、その部分が自く残るので、よほど仕事がやりやすくなったわけです。これは京都の宮崎友禅斉という人が考え出した方法で、今から思えばつまらないことですが、後から見るといつもそんな風にうつるのが発明というものでしょう。

それが、元禄時代の豪華な染めもの時代を現出しました。この人は、方々旅して回ったようですが、後に金沢に足をとめ、そこに以前からあった染めものの技術と合体し、加賀友禅というものが生まれました。

金沢は、百万石の城下であり、美術工芸品も奨励したので、千利休や小堀遠州なども招かれて、いろいろ有名な人々が逗留したようです。友禅斉も、きっとよばれていったに違いありません。そこで、京都とはまた味の違う、新しい染めものが発明されたのですが、その特徴は、全部手仕事であることと、特に彩色がみごとなことです。派手で、しぶいとは、こういうきものをいうのでしょう。

友禅には、手描きと型を用いるのと二つの方法がある

手描きは自由で面白いのは当然ですが、型の制約もまた別な美しさを生み出します。そのことは、後で専門家に語って頂きますが、加賀友禅のやり方が、沖縄に伝わって、琉球紅型になったという話をどこかで聞いたことがあります。そういえば、何となく似た感じがありますが、何といっても南国の色は強烈で、日本の気候には合いません。

今、紅型がはやっていますけれども、琉球のとおりではなく、みな日本の色に調子を押えて染めています。現在の作家達は、それぞれ自分で工夫した方法で染めているので、一概に何々ときめるわけにいきません。が、実に多彩な様式であるのは、日絵写真のきものを見れば、おわかりでしょう。

吉岡剣法の祖は、剣士と染織家を兼ねていた

こんな面白い話もあります。

宮本武蔵と戦った、吉岡剣法の祖は、剣法といって、剣士であるとともに染織家も兼ねていました。あるとき、のりの刷毛をもったまま、昼寝をしていた所、蠅がうるさかつたので、その手で払った。と、かたわらの布に、のりが飛んで、面白い文様を描き出した。

一名剣法染

今いうまきのりとか、吹雪とかいう方法は、それから発明されたそうで、一名剣法染(又は剣法染)と呼ばれたという話です。作り話としても、ありそうなことで、糊を散らしただけの吹雪文には、剣法の気合といったものさえ感じられます。

友禅を簡単に説明すると、先ず下絵を描いた後、細い筒形のものに、糊を入れ、下絵の線にそって糊を置き(デコレーション・ケーキのやり方で、手で押しながら糊を少しずつ出していく)、その中へ色をさします。

彩色ができあがると、その上に再びうすい糊をおいて、地色を染める。そして最後に、お湯につけて糊を落とすと、模様が現われるという工程です。

染めるのには、主として絹が使われます。木綿でも、面白いのですが、おかしなことに、地が木綿だといくらいい加工をしてもお金がとれないという、妙な不文律が商売人の間にはあって、そういう観念的なことは、なるべく今後はなくしてほしいと思っています。

型染めの場合は、下絵を描くかわりに、あらかじめ彫った型を用い、その上へ糊を置いていく簡易化された方法で、友禅には、手描きと型染めと二つのやり方があるといっても、手描きが本来の形なのですが、この頃では反対に、型染めを友禅と呼んでいるようです。

そういうことも、買手の方で、はっきり知っておいた方がいいでしょう。染めるには、化学染料や植物のほか、顔料も用いますが、染めるというより絵に近いものですから、芸術的価値の高いものです。型が発達したのは、これも琉球に於てであって、友禅が先か紅型が先か、ほんとのところはわかっておりません。

紅型は、型の上から糊をおき、あいている部分に、顔料で色をさしていきます。

江戸小紋

江戸小紋

江戸小紋は、この方法によく似ています。ただ、色をさすかわりに、藍ガメにつける。江戸で発達したのは、侍の梓にこまかい文様を染めたからで、鮫、あられ、花小紋など、針でついたような小さな型に糊を置くには、高度の技術を要します。

仕事も楽に

その場合、糊をおいた所が自く残りますが、反対に、糊に染料をまぜて染めるやり方もあり、これだと型が逆に出るわけです。藍につけて、やり損う心配もなく、仕事も大分楽になります。この方法を、捺染といい、文化財の小宮氏など、よく用いていました。

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